LOGIN♠ 亮
帰宅すると部屋の中は真っ暗で唯織は帰っていなかった。
確か今日は朝からいなかったので昼勤のはずだ。
既に二十一時半、
まだ帰って来ていないのは珍しかった。
大体二十一時までには帰っており、
居間で筋トレをする習慣がある。
彼女は同じ高校の同級生だ。
学生の頃にシュートボクシングの選手として日々汗を流しており、
高校を卒業してから七年間恐らく筋トレは欠かしていないほどストイックだ。
高一の時の夏に協会が主催する試合で負けてから、
負けず嫌いに拍車がかかったと言っていた。
俺は特に体に気を使っていないので、
夕食用に買っておいた一食五百円の焼きそばを作る。
パソコンを起動させて途中になっていた曲作りの打ち込みを再開する。
明日は横浜駅前の広場で歌手藤沢亮として路上ライブを行う。
俺は売れていないアーティストだ。
このまま売れないで死ぬわけにはいかないと常に焦りを抱いている。
時間があれば音楽のことを考え、
毎日曲作りをするように意識している。
焼きそばを箸で突きながら必死にキーボードを叩いていると、
背後から施錠を解く音が聞こえた。
ようやく唯織が帰宅したようだ。
おかえりと挨拶しても、
うんと一言淡泊な言葉が虚しく響くだけだ。
唯織が冷たいのはいつものことなので特に不満を抱きはしない。
だが、
悲しみがゼロだと言えば嘘になる。
売れていない歌手である俺を一人前の人間だと認めていないに違いない。
唯織は毎日看護師としてプライドを持って仕事に向かっている。
売れずに何も価値を生み出せない俺に負の感情を抱いてもおかしいとは思わない。
悲しい現実ではあるが、
結果を出していない俺が悪いので文句を言う筋合いなどない。
現状を変えるためには歌手として売れるしかないので、
毎日必死で曲を作って路上ライブを敢行し実践を積むしかない。
「亮さ。
『生きとし生けるもの合同会社』
って聞いたことないかな」
振り返ると唯織は椅子に座って腕を組んでこちらを見ていた。
顎が細くて唇は薄く奥二重の目が冷酷そうに見えるが、
仕事に対して誰よりも情熱がある人だ。
「聞いたことのない会社名だよ。
それがどうかしたの」
「この前さ、
うちに赤ん坊の死体置かれたじゃん」
一週間ほど前、
うちに赤ん坊の死体を放棄される事件が起きた。
その夜スタジオに籠っていたので直接目にはしていないが唯織から話は聞いた。
翌朝帰ると一睡もしていない唯織が目を真っ赤に腫らして椅子に座り、
テーブルの一点を見つめて微動だにしなかった。
淡色の朝陽が窓から入り、
硬直した彼女の横顔を照らしていた。
少し落ち着いてから大体の話を聞いたが、
衝撃的な内容で何て反応をすれば良いのか分からなかった。
それは大変だなと絞り出して発するも、
彼女には他人事に聞こえたようで静かに睨まれた。
「赤ん坊の死体と、
その合同会社に何か関係があるの」
「多分だけどね」
唯織は居間から出て行った。
両腕を怠そうにし、
猫背気味な姿勢で脱衣所へ向かった。
仕事終わりにどこかへ行って来たのか疲弊しきっている様子だ。
歌手で売れてお金を手にし、
彼女に少しでも楽になってもらいたい。
経済的に豊かになれば、
仕事ももっと余裕を持ってできるのではないか。
生活に余裕が出れば心の棘もなくなり、
俺との仲も温かいものになるはずだ。
焼きそばを食べ終えて食器をキッチンで洗おうとすると、
閉め切った脱衣所から声が聞こえる。
忍び足で扉に近付き耳を当てる。
「本間唯織、
お前は山本も山本の旦那も絶対に許さない。
お前の仕事に汚点を残した夫婦はお前の敵だ」
唯織は鏡に映る彼女自身の顔に向かって言葉をかける癖がある。
彼女曰く、
自己暗示もかけられ、
声に出してストレスの解消にもなり一挙両得だそうだ。
シュートボクシングの選手時代に、
絶対に負けたくないために編み出した独自の習慣だと言う。
試合前に鏡に映る彼女自身に、
負けるなんてあり得ないと声をかけると暗示がかかって気合が入るようだ。
彼女のストイックさは見習わないといけないといつも俺を焦らせる。
もっと自身を追い込まないと歌手として売れない。
だが、
先程彼女が口にしていた生きとし生けるもの合同会社とは何だろうか。
会社が赤ん坊殺しに関与しているのか。
何となく疑問を抱いたが、
曲作りに戻るとどうでも良くなってきた。
♠ 亮光のない空間、俺は横になる。唯織が亡くなってから、恐らく一週間ほど経っただろう。俺は結局唯織を助けられなかった失意から死を決意し、再び顔を破壊する行為に出た。唯織を助けようと思って生きていたため、今更生き永らえる目的もなかった。今回は誰の勧めでもなく、俺自身の意思で顔面の破壊を実行した。前回の破壊では口は手を着けなかったが、今回は水酸化ナトリウム水溶液を口の中に含んで口腔も爛れさせ、舌も溶かした。もう歌手として活動しない俺には、口も必要ない。口を失って、本格的に今の人生をやめる決心が付いた。唯織の自害からずっと心配してくれた警官の一人が、自室で顔を血と膿で一杯にして倒れている俺を発見したようだ。病院へと搬送されたように感じる。沙耶も唯織も、歌手としての夢も、俺の未来自体も何もかも捨て去り、ただ死に損なった。残った左の眼球も錐でめった刺しにしたため、視覚ももうない。今は脳内の世界で残り僅かな正気で思考だけをし、命尽きるのを待つだけだ。俺にとっては沙耶や唯織、歌手としての艶撫亮のみが唯一の思考の中に残る光だ。ひたすら三つの光の鮮やかさに見惚れ続け、人生が途絶える瞬間を待つ。だがその中で、輝かしい空想だけではなく、当然のように不純な思考が差し込む。宮田老人は何故自らの娘も一緒に殺そうとしたのか。死に価値を見出していた宮田老人でも、娘の死は思い留まらないのか。娘に消火器に収めた臭いを発射させる役を与え、逃がす機会を奪っていたように見えた。宮田老人は自らで消火器を使って娘は逃がしても良かったのではないか。ずっと何かが引っかかっている。宮田老人は娘もまとめて殺そうとしていたのではないか。それは果たして、生死の神秘性を与えて作品化させるためだけか。もしかしたら、娘が死ぬべき存在だと見做していたのではないか。だが、その理由が思い当たらない。しばらく考えていると、一つ別の角度からの可能性に思い当たった。逆に娘が父親を利用していたとなるとどうだろうか。今まで親子の関係から、父親の宮田老人が諸悪の根源だと思い込んでいた。だが、実際に沙耶をリンチする際、集団を束ねているのは娘の方だった。もしかしたら、既に合同会社は父から娘に代表の座を受け継いでいたのではないか。
♢ 唯織ここはどこだろうか。白い壁、白い天井、白い床。天国にでも行けたのかと思ったが、違うとすぐに気づけた。白衣観音像の〈本当の〉胎内だ。「唯織、しっかりしてくれ」隣から声が聞こえる。夢人かと思ったが違った。亮だ。頭の中が霞がかっている。胎内の中は先ほど見たように、影の人間もおらず何の香りもせず、ただ無機質なだけだ。壁にかかる生クリームや果物も落ちて、床の端にゴミみたいに積もっている。生命が消えたような喪失感が、ふやけた脳みそをホロホロと崩しながら入り込んで来る。一年程前に山本さんの赤ん坊の死骸を見て、生まれたての子の気持ちを想像した時の喪失感とどこか似た苦味がする。とりあえず何か実体のあるものを感じたかった。適当に右手を動かしていると、何か温かいものを掴んだ。私の名を呼ぶ声と一緒に拍動が手のひらに伝わる。亮の体のどこか一部を掴んだみたいだ。人間の一部に触れていると徐々に感覚が研ぎ澄まされていく。清水から銃で撃たれた腹部に激痛が走る。「唯織、今警察の人が救急に連絡してくれているから、それまで頑張って耐えてくれな」どうやら警察もいるみたいだ。私が清水に銃で撃たれた後、宮田さんが清水を撃った。それから何があったのかは記憶にない。ただ一つ、今まで一生懸命働いていた仕事が幻と分かった今、私の生きる意味を失った。「夢人さんは、どこに」人生を生クリームと果物で甘く酸っぱく味付けしてくれた夢人葵は今どうしているのか。亮が助かって、警官が一緒にいる現実を考えると嫌な予感がする。「夢人は警察に捕まった。良かったよ。アイツは簡単に人を殺せるれっきとした犯罪者なんだから」亮の言葉と同時に周囲に散乱する果物の匂いが鼻を突いた。今、確かに彼は捕まったと聞いた。私が唯一愛した男は、結局宮田老人の駒も同然だった事実や、私自身の不甲斐なさ、理不尽と分かっているが亮への憤りが、明瞭になっていく意識の中で旋風のように吹き荒れる。「宮田さんは、どこにいるの」「さっきまでいたけど、今はここにいないみたい。多分何人かの警官と一緒に外にいるのかな」掴んでいる亮の一部が手首と分かったので、両手で捻じって床に伏せた。どこから力が沸いて出るのか腹部から血を流しながら立ち上がり出口に向
「なぜ、恋に死が絡むことを望むのですか」我慢できず、老人に問いかけた。「艶撫亮、あなたはまだ理解できないのでしょうか」老人は顔を上げ、眼を剥き、俺の潰れた顔を瞠目する。老人の白目は充血して赤い蜘蛛の巣が張っているみたいだ。「艶撫亮の意味は小野から聞いていただろう。それに全てが凝縮していると言っても過言ではない」艶撫亮の意味については何度も確認した。死を潜った新しい生である艶撫亮が最も美しいなど記載されていた。宮田老人は言葉を続ける。「なぜ恋物語に死が絡むべきなのか。大前提として、新たな生命を作り人間の種を維持するために備えられた人が人を恋する機能は、そもそも死とは裏表の関係だ。生死という人間にはコントロール不能で神のみが扱える聖の領域があるために、人生はより刺激的になるのだ」「人は必ず最後は死ぬ生き物です。そんな人を死に追い込むようなことをする必要があるのですか」「分からないのかい。人の手による命のコントロールだからこそ魅力を生むのではないか。なぜなら恋物語に神聖な要素を手で装飾して、人生を人の手によって煌びやかな作品にできるからだ」つまりこの老人は最初から他人の人生を自分の作品にしようと考えていたわけだ。「命をコントロールすることに罪悪感とかは沸かないんですか」「なぜそんなもの抱かないといけないのか。人生を作品にすることで、その者の価値も上がるではないか。今まで何も持たなかった人間に、作品としての価値が付与されるのだから」その哲学の下で生まれたのが艶撫亮ということか。宮田老人は、人の手によって生み出された死を孕んだ人生が最も美しいと思っている。そのために沙耶を名乗った小野美里は死に、俺は顔を破壊して死にかけた。艶撫亮はこの老人の作品に過ぎなかった。「いつからそんな考えを持つようになったのですか」「具体的な時期なんて分からないですよ。でも、私が十四歳の時に二歳の弟がいたのですがね。彼は二歳の時に病気で亡くなったんです。その時私の父が、『人が死ぬから、他の人は生きられるのだ』と言っていた。私はその時に初めて人の死を意識し出したかもしれない。死があるからこそ、私含めて生きている人間の命が尊くなるんだと」宮田老人はなぜか弟の死体にハエが集まる汚らわしい様子を見た記憶があ
♠ 亮「そこです、そこの『優美カフェ』と書いてあるところです」ショーケースの中に目的の文字を発見した。確かに唯織は「優美カフェ」と言っていた。山にめり込むように店を構え、上へ行くと大船観音寺がある。「本当なのですよね。あの動画で言っていたことは」パトカーを運転する警官はまだ半信半疑みたいだ。「さっき見たじゃないですか。あの倒れていた包帯男は夢人葵です。本名は新木葵。昔、『小中学生立ちんぼ倶楽部』の事件で逮捕された男です」「でも、個人を特定できる物が何もなかったからね」俺は美里の母の意思を考慮し、動画はまだ警察に見せていなかった。どうやら小野美里の母は、公園で送ったラインのメッセージを見てくれたみたいだ。彼女は品濃中央公園の位置を調べて、戸塚警察署に連絡入れてくれたようだ。その後、ゴッホによる異臭騒ぎで多数通報があり、小野母の通報の内容と繋がって本格的に警察が動き出した。ファンの男とスウェットの男も助かり、先程救急搬送された。計四人の警官と一緒にパトカーから降りてカフェに入った。「待て、落ち着きなさい」入った途端、一人の警官の鋭い声が響いた。見ると、唯織の先輩ナースの宮田という女性がこちらに銃口を向けている。周囲を見ると、三浦と名乗った宮田老人も銃を右手に持ち、胡坐をかいて座っている。清水は顔中血だらけにしながら、ワイシャツの胸の位置も真っ赤にしていた。その隣には丸まって苦しそうにする一人の女性がいる。彼女の下には血液が流れている。「唯織、大丈夫か」「近寄っちゃ駄目だ」警官の一人に止められて近寄れなかった。唯織は微かに動いてはいるものの、殆ど力は残っていなさそうに見える。警官の一人が救急に連絡を入れている間、銃を持つ宮田親子に呼び掛けている。「何をしているんだ。説明しなさい」「お父さん、どうする。こうなったら大団円も考慮しないとじゃないかな」「そうだね。この後の展開は中々厳しそうなものになりそうだな」老人は苦しそうな声を上げながら立ち上がった。よく見ると彼も全身痣や出血が酷い。老人は力なさそうに、幽玄な様子で警官たちに近寄る。「どうも、私が『生きとし生けるもの合同会社』の代表社員の宮田敏幸でございます。こちらは娘でございます。娘も合同
♢ 唯織血にまみれた宮田親子がカフェのフローリングの上でロープで縛りあげられている。彼らに一蹴り入れた清水は、こちらを向いて近寄って来る。「唯織ちゃん、どうする。もう君一人だ」ヤニで汚れた清水の上の前歯と、青紫色の下唇との間に涎の糸が引いた。「どうするも何も。私に選択肢はないように見えるけど」どうせ清水たちによってリンチされるだけだ。店に戻って来るや否や、彼はいきなり宮田さんの側頭部に拳を打ち付けた。背後にいた清水の友人を名乗る男たちも加勢して宮田親子をミンチにする勢いで殴り続けた。清水曰く、昔一緒に活動していた地下格闘家の男たちを連れて来たようだ。「もう十年以上もこの団体にいるんだ。そろそろ処分されるなって、雰囲気で分かっちゃうもんなんだよな」革靴の先で宮田老人のこめかみを踏みつけながら、野卑な笑い声を発する。「処分されるのが嫌なら、出て行けば良かったじゃない」「今更どこに行けって言うんだ。こんな人間が生きられる場所がこの地上にあるのか。よく考えてみようぜ」いきなり右ストレートが顔目掛けて飛んで来たので、上体を反らしながらバックステップで避け、無防備になった清水の顔にこちらからも右ストレートを叩き込んだ。「やりやがったな。待て、こいつは俺一人にやらせてくれ。お前らはその親子を引き続きやっちまってくれ」仲間の男たちを制した清水は、片方の鼻孔から血を流しながらニタニタ笑んでいる。血液が黄色い歯を赤く染めている。「シュートボクシングだろうが、要はお利口様の競技用の格闘技でしかないからな。今ここで地下の恐ろしさを教えてやろうじゃねえか」清水は顔を捻じ曲げる。下腹部を狙った金的をしかけて来た。下半身への攻撃は、手で防ぐと上半身に隙が生まれるので、バックステップで躱して相手の隙ができるのを待つ。清水が私の下腹部を狙って前蹴りを仕掛けるも脛ががら空きだ。膝で相手の脛の急所を突く。痛みによって歪む清水の顔が見えたので、顔目掛けて再び拳を入れる。「二度も同じ攻撃を食らってたまるかよ」腕のリーチは当然清水の方が長い。髪の毛を鷲掴みにされて壁に押し当てられ、何度も後頭部を叩きつけられた。「テメエみたいな世間知らずな小娘に、俺に最期を与えられるわけねえんだよ。この世界で十
♠ 亮「僕はずっと艶撫亮さんの裏には何かがあると思っていたんですよ。やっぱりでした。こんなことって本当にあるんですね」動画投稿後、すぐにファンと名乗る四十代くらいの男性が車でやって来た。宮田老人が三浦と自称していた時に唱えていた、ヒール好きが必ず出て来るという説は本当のようだ。事情を話してスウェットの男の案内ですぐに「優美カフェ」に向かうように指示した。唯織の命がすぐに危険に瀕するはずはないと思いつつも、自然と焦りが生まれ落ち着けない。「大丈夫ですかね、その何とか合同会社の仲間みたいな奴が急に襲って来たりしないですかね」ファンの男はジョークのつもりのようだが、現実は冗談を粉砕するほどの冷酷さを持つ。一方通行の道を走る途中、既視感のあるワゴン車が向かい側からやって来て進行を妨害した。「逆走車じゃなか。こんな時に運悪いな」ファンの男は何も気づかずにバックしようとするも、後ろにいた別の車が許さなかった。「艶撫亮さん。先ほど振りですね。生きていたなんて大誤算でしたよ」夢人葵が前方のワゴン車から降りて来た。後方の車からは先程俺を殺め損ねた金属バットの男が出て来た。「何だアイツ。ミイラじゃないか」金属バットで車のバックドアガラスが大破された。今度こそ必ず仕留める気だろう。合同会社の存在について話したうえで、殺し損ねたとなると彼の立場も相当危ういはずだ。「まずいな、こうなると予想できたはずなのに」スウェットの男は歯ぎしりをしながら前後の二人を交互に見る。「艶撫亮、お前はこのファンの方を連れて夢人の方へ行け。夢人は武力では何でもない。俺は後ろの金属バットの男の足止めをする」それで良いのか聞くと、スウェット男はどうせ罪滅ぼしの目的だからと悲しい笑みを作る。車を降り、俺はファンの男を連れて夢人のいるワゴン車の方へ突っ込む。夢人が両腕を広げて通せんぼしていたので、彼の急所に肩の骨を入れて体ごと突き飛ばした。視界の外で鈍い音が聞こえる。打ちどころが悪かったのかもしれない。「行ったぞ、お前たち」道端で悶絶する夢人の籠った声をきっかけに、幻影の人間が辺りに発生し始めた。仕組みは分かっている。女子中学生くらいにしか見えない大巫女の仕業だ。こんなのは無視すれば何でもない。だが、急に
何を言っているのか。耳が沙耶の言葉を拒絶して頭に入って来ない。突然足元に倒れている沙耶に向かって沢山の男女の足が伸びる。鈍い音が何度も響き始めた。「待て、お前ら。小野立て」丸顔の女性の一喝によって暴行が止んだ。「立てよ、小野。てめえ、また過ちを犯すのか」沙耶と名乗っていた小野美里が、ここにいる全員から反感を買われている。小野美里という本名の彼女が、なぜ沙耶を名乗って俺の前に現れたのか。「てめえは自分の親父と同じ目に逢いてえっつうのか」「嫌です。絶対に嫌です、許してください」「だったら、親父の損失分を埋め合わせないと駄目じゃないのか。己の運命のせいで
♠ 亮エンジン音が止み、振動を感じなくなると無理矢理ラゲッジスペースから足を掴まれて引き摺り降ろされた。黒のゴミ袋を被っているためどこにいるのかも分からない。階段を降りるように指示され、何も見えない中一歩一歩慎重に進むと、背もたれがある椅子に座らされた。手足をビニール紐で何重にも拘束されると、ようやくゴミ袋から解放された。「居酒屋 生きとし生けるもの」から出て来た男女が俺と床に倒れる沙耶を囲んでいた。恰幅の良い丸顔の女性が俺の前でキャッキャッと笑う。顔の皮膚全体に人を不愉快にさせるノイズが表出していた。「何で、笑うんですか」口の中は水分がなくなり粘々する。「
♢ 唯織今日は珍しく宮田さんが体調不良で休んでいる。彼女が欠勤するなど余程体調が悪いのかと心配になる。勤勉な宮田さんは私が入社してから今まで急に休むなどなかった。ナースステーションで患者さんの記録を書いていると、背後から私の名を呼ぶ声が聞こえた。「本間さん、山本さんの旦那さんがお見舞いに来ました」受付に行くとグレーのスーツに身を包んだ背の高い男が立っていた。無精髭に覆われた青紫色の唇から、山本さんの見舞いに来た旨を述べた。「あなたが、担当看護師の本間さんっすよね」階段を上る途中、後ろから声をかけられたので振り返りながらそうだと答える。黄色い目を細めながら私の
何だか身に覚えのある名前だ。唯織が赤子殺しの件で調査していた「生きとし生けるもの合同会社」と繋がる。沙耶と合同会社は関係があるのか。彼女が出て来るまで待とうと決めた。今度こそ正直につけて来たと言い、何があったのか話を聞いて力になろう。どれだけの時間が経ったのか。電柱に寄りかかって待っていると一台のワゴン車が目の前に停まった。ワゴン車からは二人の男が降りた。男たちは俺を見付けるといきなり詰め寄って来た。意味が分からず、ただまごつく。背後は電柱、右側を壁、前と左を黒の上下のジャージを着た二人の大人の男に囲まれて逃げられなくなった。「こんなところで何をしているんすか」